168

部屋は六畳だった。
鉄筋コンクリート造、築二十八年。
白い壁。灰色のカーテン。
窓の外には隣のマンションの非常階段があり、その向こうに夜空が幅二十センチほど見えた。
床には服が散らばっている。
洗ったものと洗っていないものの区別は、もうつかなかった。
資格試験の参考書が三冊。過去問題集。
会社から持ち帰ったノート。空のペットボトル。
コンビニでもらった割り箸。一週間前のレシート。
机の端には、ほとんど空になった水のペットボトルと薬のシートがあった。
エスシタロプラム、と小さく印字されている。いつものやつだった。
その横に、会社から貸与された黒いノートパソコンが閉じて置かれ、蓋には天井の蛍光灯が細長く映っていた。
さらにその横に、茶色い澱の残ったグラス。
土と樹皮と腐った果物を一緒に噛み潰したような味が、まだ舌の奥にへばりついていた。
彼はその前で吐いた。
何度目かわからなかった。
もう吐くものはない。胃の奥が痙攣するたび、酸っぱい液体だけが喉まで上がってくる。
首筋を拭うと、手の甲が濡れた。部屋は寒いはずだった。エアコンは二十二度になっている。なのに汗が止まらなかった。
ふくらはぎが、ときどき勝手に動いた。
体育の授業のあとにも、こんなことがあった気がする。
また吐き気が来た。
目を閉じる。
開く。
壁が少し近い。
もう一度閉じる。
開く。
さらに近い。
白い壁が呼吸していた。
膨らんで、縮む。
また膨らむ。
静かだった。
俺よりずっと落ち着いている。
壁のくせに、俺よりちゃんと呼吸している。
可笑しくなった。
床の埃がきらきらしている。
近づいて見ると、きらきらしているのではなかった。一粒ずつが、それぞれ勝手な間隔で光っていた。
白いもの。青いもの。黄色いもの。
埃のざらつきが見える。その表面に亀裂があり、亀裂の奥にもっと細かな粒がある。
粒のあいだを、細いものが結びついていた。
分子の結合まで見える気がした。
いや、見えていた。
網目の中を光が走った。
白くて、速い。
伝わる。消える。また別のところで光る。
空のペットボトルが蛍光灯の白さを噛んだ。
光が折れ、細い骨みたいになって床を這った。
吐いたものの表面には薄い油膜が浮かんでいた。
緑が紫に変わり、紫が青に変わり、青の下から金色が出てきた。
顔を動かすと全部ずれた。
美しい。
レシートが白く発光していた。
参考書の文字が浮いている。
ペットボトルが瞬く。
床が脈を打つ。
全部の中を、同じものが走っている。
壁も床も埃も光も。
俺の指も皮膚も血液も頭も。
それが壁を抜け、床を抜け、窓を抜けた。
非常階段へ。
隣のマンションへ。
東京の夜へ。
もっと遠くへ。
「なんだこれ」
声が出た。
その声まで空気を震わせて、どこかへ走っていくように見えた。
笑った。
「すげえ」
世界は全部、この六畳にあった。
わかった。
全部わかりました。
何を。
知らない。
でも、わかった。
笑った。
歯が少し鳴っていた。
二十八歳だった。
地方の公立高校を出て、東京の大学へ行った。大学院まで行った。就職活動をして、大きな会社に入った。
本社。マーケティング部門。三年目。
並べてみれば悪くない。
地方出身。国立大学。大学院修了。大手企業。本社勤務。資格取得。
二十八歳。
まだ二十八だった。
その数字が急に途方もなく若く見えた。
何を悩んでいたんだろう。
明日の資料なんて一時間で直せる。
資格試験も受かる。
転職もできる。
起業もできる。
本を書こう。
海外へ行こう。
母親を旅行に連れていこう。
恋人と結婚しよう。
山本を探そう。
佐伯にも——
佐伯。
その名前だけが、何かに引っかかった。
でも今はいい。
全部あとでできる。
あと五十年ある。
五十年。
「余裕じゃん」
立ち上がろうとして、膝が抜けた。
肩から床に落ちた。
痛いはずなのに笑いが出た。
「立てねーじゃん」
もう一度起き上がろうとしたが、腕にうまく力が入らなかった。
それもおかしかった。
壁が笑った。
冷蔵庫も笑った。
会社のパソコンまで、黒い蓋を小刻みに震わせて笑っている。
いや、笑われているのではない。
祝福されている。
そう思った。
自分はずっと祝福されていた。
「そうだったんだ」
涙が出た。
止まらなかった。
身体の中に熱いものを流し込まれたみたいだった。胸骨の裏を何度も叩かれた。
全部好きだ。
会社も好きだ。
人間が好きだ。
上司も好きだ。
あの人も子どもだった。
部長も昔は赤ん坊だった。
課長も赤ん坊だった。
人類全員、赤ん坊だった。
それが途方もない発見に思えた。
誰かに言わなければ。
今すぐ。
スマートフォンを探す。
ない。
どこだ。
右手に握っていた。
声を上げて笑った。
画面を開く。
母。
恋人。
大学のグループ。
《全部大丈夫だった》
そう送ろうとした。
何が大丈夫なのかはわからない。
でも、大丈夫だった。
指が震えて、思ったところに触れない。
一文字打つ。
違う。
消す。
もう一度。
また違う文字が出た。
諦めた。
あとで送ればいい。
画面の上で、28という数字が浮いた。
二十八。
壁にも。
天井にも。
二十八。
その間から玉虫色の文字が滲み出してくる。
《論点が不明です》
《再整理してください》
《この数字の根拠は?》
《前提が違っています》
《確認しましたか?》
確認しましたか。
高校の担任の声だった。
確認しましたか。
母親だった。
知らない女だった。
自分だった。
何を。
何を確認すればよかったのだ。
進路だろうか。会社だろうか。
今日ここにいることだろうか。
床が傾いた。
木目がゆっくり流れ始めた。
落ちる。
怖い。
おもしろい。
喉が渇いていた。
水が欲しかった。
ペットボトルは少し離れたところに転がっていた。
手を伸ばした。
届かなかった。
まあいい。
床が抜けた。
*
「それ、仕事になってないよね」
会議室だった。
白い長机。モニター。ペットボトル。PowerPoint。十九ページ。
右上に小さく Confidential。
彼は説明していた。
「上期GRPを維持しながらデジタル側で補完リーチを取り、名寄せ後ベースでは——」
口が勝手に動いた。
「で、差し手は?」
誰かが言った。
差し手。
「営業企画部で握っていただく想定で——」
「表?」
「表です」
「裏は?」
「媒体です」
「親番どこ?」
「ブランドです」
「第二?」
「第一です」
「だったらこの絵違うよ」
絵。
PowerPointを、みんな絵と呼ぶ。
「修正します」
クリック。
認知。
興味。
比較。
購入。
継続。
人間が左から右へ歩いていた。
本当にこんなふうに歩いてくれればいいのに。
「母数は?」
「百四十万です」
「名寄せ後?」
「前です」
「前ページ、名寄せ後じゃなかった?」
「あ」
「数字の世界観揃えて」
数字の世界観。
少し感動した。
「休眠は三カ月?」
「六カ月です」
「マーケ定義は三だよね」
「CRMでは六で」
「今回マーケ資料だよね」
「はい」
「じゃあ?」
「三カ月です」
「母数変わるよね」
「変わります」
「全部変わるじゃん」
クリック。
「スキーマは?」
「顧客統合側で切っています」
「論理?」
「物理です」
「物理まだじゃない?」
「セマンティック側はできています」
「オントロジーは?」
存在。
「データマネジメント部と調整中です」
「顧客と商品は分けるの?」
「統合する方向です」
「オーナー誰?」
「ビジネス側です」
「ビジネス側って誰?」
少し間があった。
「そこ整理してください」
存在について宿題が出た。
自分でそう思って、少し笑いそうになった。
クリック。
「ブロンズは?」
「生です」
「シルバー?」
「クレンジング済みです」
「ゴールド?」
「業務定義適用後です」
「そこから箱に落とす?」
「その前に束ねます」
「束ね誰が握るの?」
「データ側です」
「差し手との粒度合ってる?」
「確認します」
「落とし先は?」
「CRMです」
「CRMは落とし先じゃなくて受け皿でしょ」
「すみません」
差し手。親番。箱。束ね。握り。受け皿。落とし先。
クリック。
KPI。CPA。CVR。LTV。CDP。CRM。MMM。
全部知っている。
説明もできる。
《顧客理解の深化》
《顧客解像度の向上》
解像度。
4K。8K。16K。
母親の毛穴まで見えるのだろうか。
山本の抜けた前歯。
佐伯の鼻の横の皺。
「この顧客って誰ですか」
誰かが訊いた。
彼は黙った。
百四十万人。
名寄せすると百十二万人。
休眠の定義を変えれば八十七万人。
除外条件を入れれば九十三万人。
「わかった」
声が出た。
ほんの一瞬だけ、全部わかった気がした。
「で、この顧客って誰ですか」
もう一度、声がした。
何かが切れた。
その一人一人にも前歯があるのだろうか。
隣を見る。
小学四年生の山本が座っていた。
机の上で足をぶらぶらさせている。
前歯が一本なかった。
「お前、何言ってんの?」
彼は答えられなかった。
*
夏だ。
蝉の声がうるさい。
十歳の僕は走っていた。ランドセルの金具が跳ねるたびに鳴った。
前を山本が走っている。
「待てよ!」
「遅えよ!」
振り返って笑った。
前歯がない。
そうだ。
あの頃、山本は前歯が一本なかった。
二人で駄菓子屋へ行った。
百円玉を握っていた。
ラムネと、蒲焼きの形をした菓子と、粉を水に溶かすジュース。
ジュースは紫だった気がする。
いや、緑だった。
店にはベルがあった。
店主は老婆だった。
男だったかもしれない。
赤い暖簾があった気もするが、そんなものはなかったような気もする。
公園のベンチは熱くなっていた。
「大人になったら何になる?」
「わかんない」
「俺、金持ち」
「それ仕事じゃないじゃん」
二人で笑った。
腹が痛くなるまで。
あの夏は、あんなに幸福だっただろうか。
毎日楽しかったわけではない。
山本と喧嘩もした。
嫌いだった日もあった。
たぶん泣かせたこともある。
それでも、山本と笑ったことは覚えている。
そのとき何を笑っていたのかは、もう思い出せない。
*
白い壁の凹凸が雪山になった。
雪が崩れ、消しゴムのカスになった。
高校の図書室。
冬。
時計は六時四十二分を指していた。
そこまで覚えているのか。
作ったのか。
それでも時計は六時四十二分だった。
隣に佐伯がいた。
シャープペンシルを唇に当てている。
「これ、なんでこうなるの」
「だから、ここで場合分けするんだって」
「わかんない」
「さっきも言ったじゃん」
「説明下手なんじゃない?」
「は?」
佐伯が笑う。
鼻の横に小さな皺ができる。
本当にそんな皺があった?
佐伯はもっと普通の女の子だった。
眠そうな日もあった。
口が悪かった。
消しゴムが落ちた。
僕の靴の近くまで転がる。
拾う。
指が触れそうになる。
触れない。
二十八歳の俺が、どこかから見ていた。
一回くらい触れればよかったのに。
十八歳の僕には聞こえない。
「東京行ったらさ」
佐伯が言った。
心臓が跳ねた。
「何」
「遊びに行ってもいい?」
「受かったらね」
「そっちが?」
「両方」
「絶対受かるじゃん」
「わかんないよ」
「受かるって」
その瞬間、佐伯も僕を好きだったのだと思った。
本当か。
ただ友人として言っただけかもしれない。
それでも、
「好きだった」
六畳の部屋で声が出た。
「俺、あの子が好きだったんだなぁ」
それだけのことだった。
その春、大学に受かった。
佐伯も別の大学に受かった。
卒業式で写真を撮った。
肩が触れた。
それが最後だった。
*
研究室。
深夜二時。
蛍光灯の下に四人いた。
カップ焼きそばの匂いがしている。
「お前それ昨日も食ってなかった?」
「昨日はUFO。今日は一平ちゃん」
「違いあんの?」
「全然違う」
「お前の研究より差がある」
誰かが笑った。
それにつられて全員笑った。
一人がむせた。
余計におかしくなった。
修論は終わっていない。
教授は怖い。
就活も不安だった。
眠かった。
当時の僕は、この時期をずっと「大変だった」と記憶していた。
「また集まろうな」
「社会人になったら無理だろ」
「年一くらい」
「余裕余裕」
四つの容器が机の上に並んでいた。
翌朝には冷めていた。
グループチャットには、その後も少しだけ会話が残っている。
元気?
今度飲もう。
いいね。
いつ空いてる?
また連絡する。
そこで終わっていた。
また連絡する。
今度。
落ち着いたら。
ちゃんとしたら。
「うるさい!」
声が出た。
喉がひどく痛んだ。
思ったより小さな声だった。
*
「弁当置いとくよ」
台所だった。
朝。
卵焼きの匂い。
換気扇。
ニュース番組。
炊飯器。
母親の背中。
高校一年の僕は制服を着ていた。
「うん」
「今日遅い?」
「塾」
「何時?」
「十時くらい」
「迎え行こうか」
「いい」
「雨だよ」
「いいって」
「じゃあ気をつけて」
玄関へ行く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それだけだった。
たぶん、何百回もあった朝の一つだった。
なのに涙が出た。
卵焼き。
山本の前歯。
佐伯の消しゴム。
カップ焼きそば。
祖父の軽トラックの油と埃の匂い。
父親が黙って運転していた夜。
雨の日、友人が傘を少しこちらへ傾けたこと。
恋人が寝返りを打ち、眠ったままこちらに手を伸ばしたこと。
旅行先で見た知らない犬。
学食のまずい味噌汁。
一度に来た。
速すぎて、一つずつ見る暇がなかった。
胸の中がいっぱいになった。
苦しかった。
息を吸う。
うまく入ってこない。
もう一度吸った。
それでも笑った。
こんなにあった。
明日から全部やめようと思った。
海へ行こう。
会社なんか——
そこまで考えて、やめた。
月曜になれば、また差し手だの名寄せだのと言っている気もした。
なぜか少し笑えた。
スマートフォンが床に落ちていた。
手を伸ばした。
一度取り損ねた。
もう一度伸ばした。
午前三時十七分。
七時四十八分の電車。
九時、定例。
十一時、資料レビュー。
十五時、部長説明。
予定が並んでいた。
明日。
妙に遠い言葉だった。
今日は会社を休もう。
寝よう。
起きたら水を飲む。
シャワーは、そのあとでいい。
「簡単じゃん」
声に出した。
誰も答えなかった。
さっきまで震えていたふくらはぎは、もう動かなかった。
窓の外が、ほんの少し青くなっていた。
起きたら何か食べよう。
ラーメンは重いか。
蕎麦。
カレー。
カレーがいい。
駅前に、一度入ってみたかった店があった。
通勤の途中でいつも前を通る。
十一時半開店。
昼前なら空いているかもしれない。
今日は入ろう。
カレーを食べて、
そのあと——
床には服と、レシートと、読みかけの参考書と、空のペットボトルが散らばっていた。
机には閉じた会社のノートパソコン。
その横に、薬のシートと、底に茶色い澱の残ったグラス。
水の入ったペットボトルは、手を伸ばせば届きそうなところに転がっていた。
床に落ちたスマートフォンの画面は暗かった。
窓の外を、始発電車が走っていった。
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